こんにちは。ナダの山口です。
今日は、チェ・ゲバラの生涯についてご紹介しますね。


アルゼンチン人のチェ・ゲバラはキューバの指導者フィデル・カストロに旅先のメキシコで
出会い、キューバ革命に参加します。わずか、数十人の革命軍が
ゲバラやカストロなどの指揮の元、アメリカを盾にする独裁政権を倒し
革命を成功させます。当時、絶対的な不利をはねのけた戦いは世界中の注目を集めます。
かっこよくてロマンティスト。医師であり、革命家であるチェ・ゲバラの考えや行動はいかなるものだったのでしょう?

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チェ・ゲバラの大まかな年表

1928年
(0歳)
エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(チェ・ゲバラ)、アルゼンチンに生まれる。
1930年
(2歳)
喘息を患う。(以後、生涯にわたって苦しめられる)
1945年
(17歳)
アルゼンチンのブエノスアイレスにある医学部に入学する。
1950年
(22歳)
原付自転車で、アルゼンチン3000マイルの旅に出る。
1952年
(24歳)
友人のアルベルト・グラナドと共に、ペルー、コロンビア、ベネズエラを旅する。
ペルーでハンセン氏病療養所で働く
1953年
(25歳)
医師資格を取得して卒業
1953年 キューバのフィデル・カストロがモンカダ兵舎を襲撃。失敗に終わり投獄される。
1955年
(27歳)
チェ・ゲバラとフィデル・カストロがメキシコシティで初対面。同年、グアテマラで
会ったペルー人活動家イルダ・ガデアと結婚。
1956年
(28歳)
カストロとゲバラ達82人の兵士がキューバへ向かう。しかし、バティスタ政権の
攻撃を受け、兵士は12人まで減ってしまう。
1957年
-1959年
(-31歳)
カストロとゲバラ達は反乱軍としてキューバのバティスタ政権と戦い、幾多の攻防を経てキューバ革命を成功させる。
1959年
(31歳)
アレイダ・マルチと結婚。国立銀行総裁に就任
1961年
(33歳)
アメリカがキューバとの外交関係を破棄する。
1962年
(34歳)
アメリカのケネディ大統領が、キューバの核ミサイル建設を公表し、キューバを海上封鎖する。”キューバ危機”
1964年
(36歳)
ソ連を訪問。その後、ニューヨークで開催された国連総会に出席。さらに、アルジェリア、
マリ、コンゴ、ギニア、ガーナ、タンザニア、エジプトと3ヶ月かけて回る。
1965年
(37歳)
ゲバラがカストロへ別れの手紙を渡す。その後、アフリカのコンゴ反乱軍を支援するためコンゴへ出発。
コンゴでのゲリラ活動は失敗に終わりキューバへ帰国。
1966年
(38歳)
新たな革命軍支援のためボリビアへ行く
1967年
(39歳)
ボリビア軍の兵士に捕らえられる。10月9日、ボリビアとアメリカ政府の指示によって
処刑される。

▲南アメリカ大陸

▲アフリカ大陸

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チェ・ゲバラの幼少期

左がゲバラ。細身でどこか神経質そう

アルゼンチンを自転車で横断する前の写真

 

アルゼンチンの上流階級の家に長男として生まれたチェ・ゲバラは2歳で
重い喘息を患ってしまいます。父親から治療の一環としてスポーツに励み体を鍛えます。家にはたくさんの本が所蔵され
休みがちだったゲバラは様々な本を読み漁るようになります。ブエノスアイレス大学に入ると、冒険心が
掻き立てられ、暇さえあれば、ラテンアメリカを旅してまわりました。
「いま信じられないような偶然のおかげで、僕にはいまわかった。僕は旅をする運命にあるのだ、と」と旅先で綴っています。

キューバ革命の前の重要な事

医学部を卒業すると、定職につかず、さらにラテンアメリカを旅して回ります。
キューバのバティスタ政権襲撃で収監されているカストロの活動を知るのもこの時です。
訪れた国の一つであるグアテマラは、政情不安に陥り、アメリカのCIAも絡んでいたといいます。
そこで、ペルー人の女性政治活動家、イルダ・ガデアに会い、ロシア古典や毛沢東などを教えてもらいます。
また、ここで、キューバ人兵士とも会い、親交を深めていくのです。
この時、キューバ人のニコ・ロペスから「チェ」というあだ名をつけられたのです。
イルダと、メキシコで合流したゲバラは、キューバ人が住むアパートでカストロを紹介されました。
この日のうちに、カストロ率いる反乱軍に加わることを決意しましたた。
「彼と知り合ったのは、メキシコのある肌寒い夜のことでした。初めての話題は、
国際政治についてだったのを覚えています。その夜の明け方には
僕は未来の遠征隊の一員になっていました」。ゲバラは両親に当てて
このように手紙を書いたそうです。
革命活動に向けて、メキシコでは、死を覚悟
する程の過酷な軍事訓練を経験したと言います。

キューバ革命に関して

 

キューバ革命の期間をはっきりと特定することは難しいのですが、
1953年から1959年までの6年くらいの期間です。
1953年に、弁護士だったフィデル・カストロがバティスタ政権打倒のため、キューバの
モンカダという宿営地を襲撃したことで、戦いが本格化します。
バティスタ政権はアメリカの後ろ盾を武器に傀儡政治を行い、これに対して、平等な社会を
望むカストロは「共産主義」を掲げていました。カストロがメキシコに亡命した時に、チェ・ゲバラに
出会い、再びキューバへ向かいいよいよ革命が本格化します。この時、革命軍は82名でしたが、キューバ上陸時には
バティスタ政権の攻撃を受けて、12名まで減って

戦車の前に攻撃を指導する

しまったのです。カストロとゲバラなど生き残った
メンバーは、山岳地帯でゲリラ戦を断行、貧しい村人を少しづつ味方を増やし、1958年の時点では
800人以上の軍隊になっていました。カストロからコマンダンテ(司令官の意味)を任命され
1958年にキューバの第二の都市サンタ・クララで政府軍6000人に対してゲバラの軍300人が戦います。
ここで、ゲバラは政府軍の装甲列車を転覆させ、軍を混乱させ、激戦の末、サンタ・クララを制圧します。
支持を失い恐れを抱いたバティスタは国外逃亡してしまいます。1959年、カストロが首都ハバナに入城し、
ゲバラと共にハバナを制圧し、独立を勝ち取りました。

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キューバ革命以降のチェ・ゲバラの行動は

革命成就の後のゲバラは主に2つの役割を持って活動します。
(カストロは首相に就任)

 

キューバ国家の要職として

革命が成功してすぐ、ゲバラは、その功績を称えられ、キューバの市民権を得ます。
さらに、国立銀行総裁に就任します。
その後は、国家の要職として農業改革や外交活動など世界中を飛び回ります。
1959年には、キユーバの通商使節団と共に、日本を歴訪していています。
日本では、トヨタ自動車や丸紅などの会社や工場を回り、広島の原爆記念館も訪れています。
原爆資料館を見た後、ゲバラは取材した記者に「「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか。
アメリカにこんなひどい目に遭わされて怒らないのか」と話したそうです。
1961年には、工業相に就任し、文字通り国家の産業インフラを築くべく
様々な改革を行いました。また、自ら畑や道路工事などの肉体労働も率先して行いました。

しかし、国家の代表として、アルジェリアで行れた「第二回アジア・アフリカ経済会議」で事件が起きます。
ゲバラは、世界に向けて、キューバの重要な貿易相手国だったソ連を
「帝国主義的搾取の共犯者」と非難します。
カストロ達キューバの政治関係者は、大事なパートナーを攻撃したとゲバラを非難し
距離を置くことになります。
そのため、ゲバラも政治から一線を退くべく
カストロに別れの手紙を送りました。

ゲリラ戦士として

世界中を回り、帝国主義の搾取に苦しめられている人々を見て、ゲバラはまた一から
貧しい国の人たちを支援する為、ゲリラ戦争に協力する決意をしました。
まずは、アフリカのコンゴ共和國へ行き、コンゴ動乱を支援する為に指導者として
兵士を指揮します。しかし、文化の違いや兵士の士気の低さにゲバラの力が発揮できず
帰国を余儀なくされます。
最期に向かった国は、南米のボリビアです。南米の中心に位置し、つながりのある共産党の人たちもいるので、
この地を選んだと言われています。そこでは、わずか27名の軍隊で政府軍を倒そうとゲリラ活動を行います。

チェ・ゲバラがどういった亡くなり方をしたのか

盟友カストロと別れた後、最期に向かった南米のボリビア。

ゲバラは、キューバ人15人とボリビア人12人を連れて山中に入っていきます。

ボリビアは、かつてのキューバと同じくアメリカの帝国主義が蔓延していました。

また、同じラテンアメリカの中でも、閉鎖的で外国から来たゲバラ達革命軍の活動を

良く思わない民衆も多かったのです。、
アメリカの後ろ盾のあるバリエントス大統領がゲリラ撲滅作戦を宣言したことも革命を妨害する

要因となったはずです。

味方であるボリビア人の密告や喘息の再発、食料や薬不足など、危機的状況に追い込まれ

ゲリラ隊は疲弊していきます。

とうとう、ゲバラは戦闘中に銃で撃たれてすぐにボリビア兵に捕らえられてしまいます。

ボリビアの小学校の教室でボリビア軍曹により銃殺されます。
銃撃を躊躇する兵士に向けて放った「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」、
そして撃ち損じた当人に向けての「お前の目の前にいるのは英雄でも何でもないただの男だ。撃て!」
が最期の言葉です。

あとがき

はい、かなり長いブログになってしまいましたがどうでしょうか?
39年の短い人生ながら、誰よりも密度の濃い人生だったと思います。
アルゼンチンに生まれながら、キューバのために身を賭して戦い、国家の要職に就き
身を粉にして働く。一方で、第三世界の貧しい人たちの為に、立ち上がり武器を持って
戦う。多くの戦いで人を殺したこともあるゲバラですが、何よりも平等な社会を築く為に
先頭に立って犠牲を払ってきたのも事実です。死後、50年経った後も、世界中の人々から
愛され尊敬され、永遠の革命家と親しまれていますね。

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